浦和の調神社の骨董市でみつけた象牙製の小さなかわいい算盤
(富裕な商家のお嬢ちゃんのだろうか、側面に花と蝶が描かれ、珠は彫刻されて花弁に) 虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯 杉田久女
(ひとへおび)以前、芭蕉さんが没して以降、近現代で翁に比肩する句をあえて一句だけ挙げるとしたなら、私にとっては知り得る限り、杉田久女の「谺して山ほととぎすほしいまゝ」だと記したことがある。
(こだま)久女といえば、このほかにも華やいだ、あるいは鮮烈な句が幾つか挙げられるが、久女が切望した句集を上梓することはとうとう生前には叶わなかった。
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没後に長女の石昌子(故人)が心血を注いで編集し刊行した「杉田久女句集」(角川書店)を読むと、これも私の独断で異論もあるだろうが、久女は安定して佳句を詠む人ではなかったように思う。
その代表句の幾つかは人の記憶に深く刻まれることには異論の余地は微塵もないが、いわば特大のホームランを打つスラッガーではあっても、アベレージヒッターでなかったことは、それもまた久女らしい気がする。
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さて冒頭掲げた一句は、失礼ながらやはり佳句だとは言い難くて、作為による誤解や偏見もあるようだが、直情の人と巷間言われた、そんな久女の無念が剥き出しになっていて痛々しい。
深く慕ってやまない師の高浜虚子に、ある日突然その理由も述べられずに、しかも「ほととぎす」の誌上で同人を除名されて、それが精神的にダメージとなったまま寂しく生を終えた彼女が、 “虚子嫌ひ”と言うのは尤もなことである。
だが、句中の嫌いなもう一人の、かな女、すなわち長谷川かな女とはどういう人で、どういう句を詠んでいたのだろう・・・。
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それで、そう思った時に、私がいつも俳人の句をざくっと見る時のサイト「増幅する俳句歳時記」で作者検索をしてみたら、どこかで目にしたことのある次のような句が挙げられていた。
羽子板の重きが嬉し突かで立つ
ほとゝぎす女はものゝ文秘めて
冬の鹿に赤き包みを見せてゆく
一人づつ菖蒲の中を歩きけり
そのいずれもが私好みの句だが、特に「冬の鹿に〜」の句は、まるで赤い包みだけがパートカラーのモノクローム映画をスローモーションで見ているようで、その鮮烈なイメージは妖しいエロチシズムを漂わせ、古びるどころか今日なお挑発的である。
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呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
そして、この句もその中で紹介されていたのだが、かつては久女の掲句に対して、かな女が軽くいなして詠んだ返句だと言われたらしいが、それはいかにも尤もらしいけれど、面白おかしくを狙った興味本位の、為にするものであったとのことである。
何故なら、この句は久女の掲句よりも15年も前に詠まれたものだというのだ。
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そのことは動かし難い事実で、そうだったのかと思うのだが、それにしても、この句はある意味人間の真理を穿っており、なにか暗示的で、予言めいているような気が払拭しきれない。
妬心ほのと知れどなつかし白芙蓉 杉田久女
(としん)因みに、杉田久女は芙蓉を季題にこんな句を残していて、かな女の句と不思議と妙に呼応するが、これは久女がまだ「ホトトギス」で活躍している頃のもので、芙蓉の紅白といい、屈折した心情がどこか暗示的である。
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ということで、そういった一切を一旦棚に上げて、虚心坦懐にこの長谷川かな女の句を読んでみようと思い立って、すぐにアマゾンを覗いてみた。
するとどうしたことか出品されている本がとても少なくて、その中からとりあえず星野紗一という俳人(故人)の解説による「
鑑賞秀句100句選 長谷川かな女」(牧羊社)を取り寄せてみた。
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それを読まないで積んだままだったのを、先日ふと思い出した。
手に取ってみると、選んだ100句を一句ごとに解説してあったので、それが予断となってはいけないので、まずは巻末にあった四季別に纏められていた索引で句だけを読んでみることに。
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そこには、目にした記憶がぼんやり残っている句も幾つかあった。
西鶴の女みな死ぬ夜の秋
この句はその中でもとりわけ印象的であるが、そのほかの句にはこうした類のインパクトは見られず、むしろかな女の句の中でこの句は例外的なものなのかも知れない。
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さらに私好みの句の一端を挙げてみる。
水入れて春田となりてかがやけり
ものの芽の渦巻き上りゴッホの絵
藤棚を透かす微光の奥も藤
蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く
(を) 龍膽を畳に人の如く置く
(りんだう) 鶯の庭の音なりお正月
嗽ぐ水まろくあり初明り
(くちすす)「蝶のように〜」の句には、思わず杉田久女の代表句の一つである「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」を想起させられ、二人の個性の相違を感じられるような気がした。
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これら100句の感想としては、少しも奇を衒うことなく概してむしろ密やか、それでいて風情があって、そこはかとなく味わいがあると言えばよいだろうか。
おそらくは、上述の「冬の鹿に〜」や「西鶴の〜」の句は、なにも鮮烈さを狙ったものではなくて、結果そうなっただけなのだろう。
いずれにしても、100句を以てかな女の全貌に触れたと思うのは早計というものだろう。
【 Intermission 】 (ちょっとお休み)さて、この辺でようやく巻頭に戻って、本文を読み始めることに。
実は、そもそも今回ブログに記すきっかけとなった話の佳境はいよいよこれからで・・・、とは言ってもなにも大層な話ではなくて、かな女と私とのささやかな接点(?)についてのことである。
ここからはかな女の句を幾つか添えながら、かな女の人生を、本文の解説や、巻末の履歴から大まかに拾って行こう。
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読み始めると、著者(解説)の星野紗一はかな女と近しい人だったようで、一句ごとの解説は彼女の息遣いが感じられるようでとても興味深い。
かな女は明治20年に日本橋の旧家に生まれ、なに不自由なく育ち、10歳の時に父を亡くしたのだが、それでも長じて19歳の時に家庭教師に英語を習っていたそうだ。
その家庭教師で、牛乳配達をしていた東京帝大の苦学生こそが、家付娘のかな女の母親に気に入られて、まだ在学中に婿入りすることになる、そして「ホトトギス」の俳人として後に知られることになる長谷川零余子(はせがわ れいよし)だった。
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かな女は明治40年の秋に新宿柏木(今の北新宿)に転居し、その2年後に結婚。
こうして元々文学に関心があったかな女は、零余子の手ほどきによって俳句を覚え、天性もあったのだろう、めきめき上達して、程なく虚子からも一目置かれるまでになって行った。
一方、虚子門下になっていた夫の零余子は、帝大を卒業して薬品研究所に勤務すると共に、次第に「ホトトギス」の要職を担うようになった。
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凍てる廊にころび哭きけり聲あげて
こうして、病弱だったかな女の人生は伴侶を得て順風満帆のように見えたが、文字通り突如それが暗転する事故が起きた。
大正8年、来日したスミスというアメリカの飛行家が宙返り飛行をするのを見ようと庭に出た途端に、かな女は足を滑らして転倒し捻挫したのだ。
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上の句は、その時のことの俳句というよりも叫びだが、捻挫とはいえそれはひどい怪我だった。
1ヶ月入院してかろうじて左足の切断はまぬがれたものの、この怪我が元で結核性の関節炎となり、それが持病化し生涯かな女を苦しめることになった。
こうしてかな女は長い間松葉杖を手離せなくなり、自ずと家に籠りがちになって、時が過ぎて行った。
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そんな中、再び幸せな時がやって来る。
打ち拉がれるほどの不幸に見舞われて暫く経った大正15年、子供に恵まれなかったかな女は、浦和の三室(みむろ)に住む叔母の家から生後一年の男の子を養子に貰った。
まだこの物心つく前のこの子を、かな女は我が子同然に愛情をもって育て、こうして一家は災難を乗り越えて希望を取り戻したのだ。
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半月に一人帰りぬ呆として
(はんげつ)だが、その平安も長くは続かなかい。
幼な子を迎えた翌年の、年号が変わって昭和2年、きっとなにかにつけて相談相手だったことだろう、かな女の母が他界。
そして、さらにその翌年の昭和3年、今度は夫の零余子が山陰の旅から帰った途端に体調を崩して入院、そのままあっけなく帰らぬ人となった。
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その死は法定伝染病のチフスによるもので、穴道湖で食べた活魚料理が原因といわれたが、ちょうど現在のコロナによる死のように、遺体を家には持ち帰ることは許されず、通夜は七・八人だけで病院の一室で執り行われた。
上の「半月に〜」の句は、そうして病院から家への途次、頭上の月に擬えて、我が身を半分もがれて抜け殻のようだと自らを詠んだものだが、あまりに痛ましくて言葉もない。
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芭蕉裂く嵐にいつまで耐ゆことぞ
だが、魔の手は弛めることを知らない。
零余子の四十九日の前夜、句会に出たかな女は疲れたので早めに蚊帳の中で寝てしまったが、ただならぬ声に目を覚ますと、すでに火の海となっており家は全焼、人災は避けられたが、何もかも焼けて無一物となってしまった。
【 Intermission 】 (また、ちょっとお休み) 北風のますぐに歩く仲仙道
だが、いよいよ崖っ縁まで追い詰められたそんな時に、救いの神が現れた。
子の養子縁組に尽力してくれた浦和の三室の叔母がまたしても世話をしてくれ、尾羽打ち枯らした心境だったろうかな女は、火災から2ヶ月後の11月、まだ幼い子と女中を連れて、三人で浦和駅西側の借家に転居した。
当時は浦和駅周辺はまだ人家も疎ら、物騒な事件も起きていたようで、かな女はさぞかし寂しくて心細かっただろうが、住めば都、その新天地が終の栖となったのだ。
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この辺りまで読み進んできて、私は、おっー!と驚いた。
どうしてかというと、私も十数年前に一時、浦和駅の西側に住んでいたのだ。
つきそれで、さらに読み進めると、そこは浦和駅と浦和の鎮守の調神社(通称:つきの宮さん)との中間くらいの所で町名が岸町だというではないか。
「つきの宮さん」の狛ウサギ ●
実は私の住んでいたのも岸町で、日本で唯一らしい鳥居の無い、そして狛犬の代わりに狛兎(?)のいる、つきの宮さんのすぐ傍だった。
私の家から浦和駅までは徒歩で約8分くらいだったから、かな女の住まいのあった場所は特定はできないものの、私の住まいからせいぜい3〜4分の所だろうと推測できた。
それで、個人情報云々の今日では驚くようなことだが、昔の句集というのは当たり前の様に、奥付に著者の住所が明記されていたことを思い出した。
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ちょっと調べてみると、かな女の当時転居した住所の番地が判明、なんとそこは私が毎日通勤で浦和駅まで歩いていた狭い道の途中を右折して間もなくの所のようだった。
世が世なら、私はかな女のご近所さんと言ってもよいほど近くに住んでいた(!)。
だから、かな女が浦和に来て2年後に詠んだ、上記の「北風の〜仲仙道」の句は、私は実感を伴ってその冷たい風が真っ直ぐに抜けていく景色を浮かべることができる。
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因みに、著者(編集・解説)の星野紗一も当時浦和仲町に住んでいて、かな女と親しく交流していたようだが、その住所よりも私の住んでいた所は遥かに近いのだ。
だからどうしたと言われれば、返す言葉もないのだが、私のかな女に対する距離は一挙に縮まって、本で読むだけの俳句の歴史上の人物から、勝手ながら、かな女は私の中でほとんどご近所の上品なおばあちゃんみたいになってしまった。
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さらに読み進んでいくと、浦和に移り住んでからのかな女の俳壇での活躍は目覚ましく、世間の評価もいよいよ高く、浦和市(当時)の名誉市民になったり、晩年には勲章をもらったりもしたそうだ。
生涯の影ある秋の天地かな
そうして、私の住まいだった所から1〜2分の、私が好きでよく散歩に行ったり、たしか月1回開催されていた骨董市を覗いていた、つきの宮さんの境内には、かな女の来し方を偲ばせる上の句を刻んだ句碑が、生前に建立されているという。
さらには、ここも大好きな所でよく行っていた、その昔浦和の名物が鰻だった頃の産地であったという別所沼にも、やはり生前に句碑が建てられているようだ。
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けれども、私が浦和に住んでいた当時は、残念ながらまだ俳句なんて全く無縁で、かな女の名前さえも知らなかったので、たとえ句碑が目の前にあったとしても、気に留めることもなかったろう。
という訳で、今度浦和に行く機会があったら、浦和駅からてくてく歩いて、かな女のかつての住居跡と思しき辺りを経由して、つきの宮さんの境内の句碑を見て、それからのんびりと遠くの別所沼まで足を延ばして、そこでも句碑を見てみよう。
ついつい我ながら呆れるほどに話が長くなったが、最後に、絵を描くのも好きだったという、かな女の美意識の一端について述べて、この文章を締め括ることにしようと思う。
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かな女の好きな花は龍膽(竜胆/りんどう)、彼岸の9月22日が命日でもうすぐだが、「りんどう忌」と呼ばれているそうだ。
好きな色はやはり龍膽の色である紫色、その想いが上記の「龍膽を〜」の句によく表れているように思われる。
それを自ら公言するかのように、昭和4年刊の第一句集の標題は『龍膽
(りんだう)』、そして昭和44年刊の生前最後になった第六句集のそれは『牟良佐伎
(むらさき)』である。
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実は、数日前にその句集『牟良佐伎』を発注していて、それが到着したばかりでまだ読んでいないのだが、函に収まったそれは、表紙回りが落ち着いた紫、その表題には銀の箔押しが施されていた。
この句集を目にしてかな女は僅か4ヶ月後に亡くなったのである。
享年八十二、激しい起伏や戦争もあったものの、浦和での後半生は穏やかで、当時としては長命の一生だった。
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生まれて最初に “ きれい、きれい ” と発したと伝わる、かな女。
それは伝説だろうが、なにも根拠はないけれど、私は本当のことのような気がする。
でも、なにを見て、その言葉が口を衝いたのだろう・・・。
りんだう 龍膽やきれいきれいと喋りそめ 尾坂幸次郎
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