各国の選手たちが日本選手団の騎手を担いで行進していた
この世には、悪魔的な美、悪魔的な魅力というものがある。
かお
それは、いつだって整然と、聖なるもののような貌をしている。
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その魅力の前に、ともすれば人は自己を放擲し、平伏してしまう。
そのことは、多くを語らずとも、レネ・リーフェンシュタールという美人で野心家の映画監督による、ナチスの党大会を記録したプロパガンダ映画「意志の勝利」を見てみるとよい。
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一糸乱れぬ整然とした大行進、太鼓の連打、ファンファーレ、赤と黒の鉤十字の旗や垂れ幕、美しい軍服、そして、ヒトラーの演説。
当時もし、その場にいたなら、それでもその魔力に少しも陶酔せずに、己を保つことができたなんて、私は思わない。
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だが、この世には、逆に、無秩序という俗に宿る聖がある。
そのことを、前回の1964東京オリンピックは、当時まだ中学生で半ば不良だった私の心に、深く刻んだ。
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秋晴れの下に行われた開会式、各国の選手団入場、長い階段を駆け上っての聖火の点灯、ファンファーレ、青空に翔んでゆく無数の白鳩、そんな記憶が今も薄らと残っている。
1964オリンピック開会式
だが、このオリンピックが私に残した、鮮烈な印象と言えば、全ての競技が終わった後の、閉会式だった。
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それは、意図した演出ではなくて、偶発的に起きたことだったそうだ。
開会式と同様に、各国の選手団が整然と行進するはずだったものが、何かがきっかけで、そんなシナリオは吹っ飛んでしまった。
人々が、国も、人種も、民族も、宗教も、そんなことなど気にせずに、互いに腕を組んだり手を握ったり、思い思いに嬉々として、入り乱れて入場したのだ。
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そんなことは、オリンピック史上それまでは無かったことで、見ていても最初は、一体どうしたんだろうという、戸惑いを覚えるような感じだった。
でも、何が何だかよく判らなくても、その光景から、目が離せなくなってしまった。
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ただただ、私は幸せだった。
これがオリンピックというものだ・・・と心底思った。
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その時の感動をもたらしたものこそが、「無秩序な俗に宿る聖性」だった。
きっと大げさに聞こえるだろうけど、まるで雷に打たれたようなその時の感動が、今に至るも、私の精神のひとつの柱となってしまった。
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とにかく、“整然と統一されたもの” でなく、“雑然として不統一なもの” を好むようになった。
だから、上から下まで同じ色調とか同じブランドで統一したファッションや、モダンとかクラシックとか一つの様式だけで統一したインテリアなんかを、今も私は好まない。
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それはもう昔の話だが、仕事上でも同様で、かつてフォーラムの運営を幾つも手掛けていた頃は、あえて講師全員がだらだらと登場するような演出をしていた。
もっとも、その仕事に従事した当初は、司会者が一人ずつ紹介してから、一人ずつ講師が颯爽と登場するような、スタッフの用意した進行台本をそのまま採用していた。
だがある時、ある大学の先生から、そんなことやめましょうよと言われて、二つ返事で同意、それ以来ずーっと、全員が同時にぐずぐずと登場するようにしたものだ。
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ということで、いったい何が言いたいかというと、実は来年に延期された2020東京オリンピックのことである。
オリンピックは前回の東京オリンピックからおよそ半世紀を経て、すっかり様変わりしてしまった。
今日では残念なことに、カネにまみれ、口を開けば経済波及効果がどうしたこうしたというような、そんなひどく情けないものに堕してしまった。
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だが、それでも私は、コロナウイルス禍が終息して、来夏にオリンピックが開催されるなら、密かに夢想していることがある。
それが何か具体的には判らないが、主催者の意図しない、想像力の及ぶはずもない、何か偶発的な奇跡のようなことが起きることだ。
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私がそうだったように、それから半世紀を経て、なお人の心に残るようなことが・・・。
去年の花おもひ浮かべて弥生尽 尾坂幸次郎
注:去年(こぞ)、弥生尽(やよひじん)/三月末
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