もう昼なんだと思って、テレビを点けたら、またやっていた。
私のお気に入りの「空港ピアノ」(or「駅ピアノ」)という番組で、空港や駅の待合所に誰もが弾けるようにピアノが置いてある。
それに気づいた多様な人種や民族や国籍の老若男女が、クラシック、ジャズ、ロック、映画音楽、練習曲等々、思い思いに演奏する様子と、演奏後のワンコメントだけを、幾つかの定点カメラで次々と写しているだけのものだ。
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NHK−BS1の、たった15分の短い番組だが、いろいろなバージョンがあって、繰り返し再放送されているのに、それがなぜか飽きない。
やっていたのはシチリア島の空港のもので、たしか前にも観たことがあるやつだなぁ、と思いつつコーヒーを淹れようと、その準備に取り掛かかるのに、少しだけボリュームを上げた。
というのは、前に一度それを観て、聴いて、まるでタイムトリップしたように、あの頃のことが突然甦ったことがあったからだ。
それを、もう一度聴いてみたいなぁ・・・、と思ったからだ。
お兄さんの写真は撮り損なったので、代わりにイタリア娘のデュオ。
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湯の沸く音がだんだん大きくなって、テレビの音が少し聴こえずらくなったので、テレビに近づいたら、ラフな格好のイタリアのお兄さんがピアノを弾き始めた。
弾き始めるなりすぐさま、これだ!、と判った。
それは、ピンク・フロイドの金字塔的なアルバム『狂気/The Dark Side Of The Moon』の中の 「虚空のスキャット/The Great Gig in the Sky」だ。
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いったい、かつてこの曲を、というかそのアルバムを何度聴いたことだろう。
おそらく、私がこの歳になるまで聴いた、ジャンルを問わず、あらゆるアルバムの中でも、ダントツに繰り返し聴いたアルバムの曲だろう。
学生だった当時、CDなんてあるはずもなく、文字通りLPレコードが擦り減るほど、それを聴いていた。
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ピンク・フロイドというと、なにしろプログレの代表のように言われて、インストゥルメンタルの重厚で難解な小難しいイメージがして、敬遠されるかもしれない。
だが、たとえばアルバム『おせっかい/Meddle』の中の、ゆったりした曲なんかも私はとても好きだった。
FCリバプールのサポーターによる応援歌が流れる曲「フィアレス(Fearless)」や、軽快なテンポが心地良いボーカル曲「サン・トロペ(San Tropez)」、はたまた犬の絶妙なボーカル(!)曲の「シーマスのブルース(Seamus)」・・・。
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そうして、後年、研修を大義名分にして、バカンスシーズン真っ盛りのサン・トロペに行ってみたら、予約していたホテルがなぜか満室で、どうにかこうにか農家の馬小屋だった気配が濃厚の宿に泊まったりした。
またある時は、日韓ワールドカップの因縁のイングランドvsアルゼンチンの緊張に満ちた試合で、イングランドの応援席に陣取って、その見事な応援歌を聴いていると、あのピンク・フロイドの曲を想い出したりもした。
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そんなこんな、ピンク・フロイドにまつわる想い出はいろいろあるが、なにより忘れられないことがある。
それは、学生時代の最後の住まいとなった荻窪の木造アパートでのことである。
聴く度に、いつだって緊張して身構えているのに、その目覚ましの音とそれにかぶさる鐘の音にドキッとさせられるほどのボリュームで聴いていた『狂気/The Dark Side Of The Moon』。
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さすがに、夜は避けて、そんなボリュームで聴くのは日中だったものの、それにしても、隣りの住人はさぞかし迷惑だっただろう。
そのお隣りさんは、どちらかの引越しの挨拶で顔を合わせたくらいなもので、もはやその記憶も定かではなかった。
それで、就職が決まって、札幌に引っ越すことになったので、ひと言挨拶に行った。
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これこれしかじかで、明日引っ越しますが、さぞかし煩かったでしょうと小さくなってお詫びの言葉を私は述べた。
すると、ひょろっとしたお隣りさんは、“実は僕も就職で、間もなくここを離れるんですよ。”と言って、そして、笑顔で最後にこう言った。
“うそじゃなくて、いろんな曲、すっかり楽しませて貰いました。”
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私はさらに小さくなって、“ほんとにすみませんでした。くれぐれもお元気で。” と言うのが精一杯だった。
“お互いに。” と、彼は言ったように思う。
もうその彼も、定年を迎えてリタイアしていることだろう・・・。
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空港でその曲を弾いたお兄さんは、ピアノは独学で覚えたと言った。
そして、シチリアの小さな村の小さな映画館が舞台の映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の、その建物で友人の結婚式が行なわれたので、参列した帰りだとのこと。
まさか、その曲を東洋の果ての島国で聴いて、遠い昔に想いを馳せている者がいるなんて、夢にも思いはしないだろう。
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