子規晩年の自画像(1900年)
我病んで鶯を待つ西枕
梅に来て鶯の身のかるさ哉
雀より鶯多き根岸哉
鶯のむれて見舞を申す也
鶯に米の飯くふ根岸かな
正岡子規
子規の享年は三十五、その短い生涯に二万四千句といわれるほどの膨大な数の句を残した。
俳句を意識して作りはじめたのは、1884年に東京大学予備門に入学してからだというから、それから1902年に亡くなるまでの18年間で、平均すると年に千三百句以上、一日に三〜四句詠んでいたことになる。
因みに、芭蕉さんが五十年の生涯に詠んだ句は、およそ千句(連句を除く)である。
子規は、後年は病床にありながら、いや、病床にあればこそ、と言うべきだろうが、実に驚嘆すべき数である。
だが、失礼を承知で率直に言わせてもらうと、その中の駄句の数も膨大である。
それらの駄句を目にすると、長くはない命を悟った上での切迫した心境を窺わせて、私は痛ましさを禁じ得ない。
そんな子規は、実に多くの鶯の句も残しているが、冒頭でそのほんの一端を紹介してみた。
子規が終の栖となった根岸に住み始めたのは1893年のことで、亡くなったのはその僅か9年後のことだった。
その後、次第に建物は老朽化し、さらに関東大震災で大きく損壊したため、解体し旧材を生かした修復工事を行なって再建した。
松山から上京して子規と同居し、献身的な看病をした母と妹の律の没後も、その建物は残存保存されていたものの、とうとう先の戦争の終戦の年の春に空襲で消失してしまって、現在の「子規庵」は戦後に有志により再建保存されているものである。
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草庵
根岸にて梅なき宿と尋ね来よ 正岡子規
この句には鶯の語はないが、季語の梅には鶯が付きものであり、鶯に宛てて詠んだ句と観てよいだろう。
前書の「草庵」、すなわち現「子規庵」は、今日も根岸にその面影をとどめているが、最寄りの駅はJRの「鶯谷」である。
その鶯谷の名の由来は眉唾めくが、江戸時代の初期に京都から親王が江戸に下向して勤めるのが慣例となった上野寛永寺の門主が、江戸の鶯の声は訛っていて武骨だと、わざわざ(はんなりした?)京の鶯を沢山取り寄せて、この地に放ったからだという。
そんなちょっと笑える「いけず話」の真偽はともかく、子規の句からもその寓居の辺りには実際に雀よりも多くの鶯がいたのだろう。
そう思って先の鶯の句を目にすると、私は子規を慕って草庵を訪ね来た人々のことが想い浮かぶのだ。
子規はきっと稀代の快男児だったのだろう。
あるいは、子規という存在そのものが作品とでもいうか。
遺された著書には自分のことを臆病な弱虫と記しているが、いきいきした文面や夏目漱石はじめ周囲の人たちの著書から立ち現れるのは、ガキ大将のような闊達でのびやかな人物像である。
溢れんばかりに皆が集まったという客間には、子規が臥している隣の間から、時には下の悪臭だって漏れ漂ってきたことだろう。
にもかかわらず、子規こと本名の昇からの愛称「のぼさん」に魅せられて、大勢が草庵を訪うたのだ。
私も「のぼさん」に魅せられて、5年ほど前に上野公園での花見のその足で、かつての寓居を忠実に再現したという「子規庵」を訪ねた一人である。
そこは、忠実な再現とはいえ、レプリカである。
だが足を踏み入れると、仰臥しながら句を詠み、文を著し、絵を描き、大いに食う、「のぼさん」の濃密な気配がそこにあった。
そして、母御と妹の律の気配も。
訪れた人たちの賑やかな囀りさえ・・・。
鶯のこゑの春きく命哉 尾坂二杏
鶯のまた音なひて命哉
音なふ(おとなふ):「音をたてる」「声をたてる」から、「訪う(おとのう/とう)」の意に
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