蜻蛉や杭を離るる事二寸 夏目漱石
昨日の日曜日、また朝早く目覚めてしまい、またNHK俳句を見てしまった。
課題は「蜻蛉(とんぼ) 」。
この季語、普通は風流な心をくすぐるのだろうが、私はあることを想い出して、この歳になってちょっぴり切ないような気持ちが湧いてくる。
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私が小学生だった昭和の30年代は、社会全体がまだ貧しくて、知的障害の子供や大人がそのための施設でケアされることもなく放置されている、そんな時代だった。
私の町内にも、遊び仲間とは呼べないけれど、痩せた小柄な男の子がなんとなく私たちに混ざって遊んでいることが時々あった。
私たちは、その子のことを除け者にはしなかったが、だからといって、特別やさしく接してもいなかったように思う。
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その子がどんな顔をしていたのか、さすがにもう定かではない。
自分たちの学校では見かけないその子が、どこに住んでいるのかさえ、なぜか誰も知らなかった。
ひょっとしたら、どこか遠くから来ていたのかも知れない。
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秋になると、その子は採ったトンボをたくさん詰め込んだ広口のガラス瓶を持ち歩いて、ちょっと自慢そうにその獲物を私たちに見せていた。
いったいどうやって、あんなにたくさんのトンボを採ったのだろう。
瓶の中に詰まったトンボの死骸は、ちょっとグロテスクだった。
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ある日のこと、その子が死んだらしいという噂を耳にした。
けれども、それが本当なのか、本当ならどうして死んだのか、詳しいことを確かめる術もなかった。
それから、その子の顔を見掛けることはなかった。
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子供心に、あの子はもうどこにもいないのだ・・・と思うと、ただ可哀そうというよりも、なんだか不思議な気がしたことを今も憶えている。
とんぼう 蜻蛉やこの世にとまり何処へやら 子瞳
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