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日々のしをり

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【再掲】憲法に思うこと




     戦争が廊下の奥に立つてゐた   渡邉白泉



今日は憲法記念日。
          
安倍首相は先日、憲法改正への機は熟してきたとヌケヌケと言ったそうだ。(そもそも、改正というのはレトリックである)

この一年間だけを見ても、この国の政治家、官僚、そしてメディアの劣化の度合いはいよいよ凄まじく、目を覆いたくなるほどだ。

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こうして戦前も、権力の無茶がまかり通り、人々が自由に物を言えなくなって、あれよあれよという間に戦争へ突入して行ったのかと思うと、つくづく空恐ろしくなってしまう。

そんな中、ただ手をこまねいているのが、何とももどかしくてならない。
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そこで、せめて、ちょうど一年ほど前のGW前に憲法について述べたものを、敢えてもう一度載せようと思い立った。

投稿した時には、一年後の今日、これほどまでになっていようとは正直思ってはいなかった・・・。

この国を、あんな連中の意のままにさせたくはない。



     本棚の「火垂るの墓」の黄ばみても   子瞳



              

             【再掲】
         (2016年4月20日記)

【再掲】憲法に思うこと_d0215266_11254593.jpg
    「日本国憲法」公布書。公布の半年後の5月3日に施行された。


ゴールデンウィークも目前、その連休の真っ只中なので影が薄いが、5月3日は憲法記念日である。

そしてそのすぐ先の7月には参議院選挙 ー 可能性は減ったものの衆院解散で衆参同日選も全くないとは言えず ー 、その結果次第では、いよいよこの国の憲法の改正も一気に現実味を帯びることになるだろう。

しかし、憲法への個人的な思いはあるのだが・・・、文章にしようと思うと、どうにも筆が、いやキーが進まない。

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どうしてかというと、このテーマの周りには、特定のイデオロギーに基づいた頗る熱っぽい人達がいて、煩わしいなとつい思ってしまうからだ。

まぁ、滅多にそんなことはないだろうけど、左右双方から、右翼とか左翼とか言われたりするとイヤだなぁ・・・なんて思うと面倒くさくなって、なんだか気が乗らない。

私はいわゆる全共闘世代だが、学生運動の真っ盛りだった当時から、声高な正義のイデオロギーの人が苦手なのだ。

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そんな訳で煮え切らない感じでいたところ、いつ頃からだろう、ここ最近一二年、なんだかキナ臭い匂いが漂ってきたと思っていたら、あっという間にその臭いがキツくなってきた。

さすがに悠長に構えてもいられないなぁと思っていたが、ここに来て、とうとう重たい腰を上げることにした。

だからといって大仰なことでもなんでもない、ごく素朴な個人的な思いを述べるだけである。

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前置きが長くなったが、本題に入る前に、要らぬ誤解や憶測を避けるために予め断っておきたいことがある。

私は、先の大戦では日本が邪悪で、アメリカは正義だったなどとは全く思ってはいなくて、日本の邪悪さに負けず劣らずアメリカも邪悪だったと思っている。

だからといって、私はアメリカという国に恨みは抱いていないし、逆になんら憧れも持ってはいないのだが、ただ、他の戦勝国に占領されるよりはアメリカで運が良かったと思っていることを前提にお読みいただきたい。

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さて、憲法というものは、その一言一句すべてが国民自らの手によって成すべきものであることは言うまでもなく、自らの運命は自らの手でというのが、本来は大原則であろう。

だが、この国の憲法は先の大戦での敗戦後、最初に日本側から提出された新憲法の草案が旧態依然としていることに危惧したGHQ最高司令官のマッカーサーが指示して、急遽、GHQが自ら起草することとなった。

何でそれを知ったかは忘れてしまったが、その実務は、憲法に素人ばかりの(!)、大学を卒業して間もない者や女性も含むGHQ民政局の、多くはまだ若い精鋭2、30人の手によって、僅か10日間程で(!)、起草されたと記憶している。

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だが、よく耳にする、それを丸ごと有無を言わさずに、日本がマッカーサーから一方的に押しつけられたかのように言うのは、為にする言説であって正確ではない。

その草案は、没となった日本側の案も参考に作成されており、作成後は日本側とのキャッチボールによって修正もされており、まぁ、押し付けられたようであり、多少なりとも押し返したようでもあるのだ。

その辺は、見る人の立ち位置によって見解が異なる、いわゆる玉虫色のようだが、マッカーサーの指示した三原則(天皇を国家元首とする、戦争の放棄、封建制の廃止)は概ねそのまま決定を見るに至った。
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そのように、およそ基本となる国のあり方を定める憲法が、他国によってその根幹がほぼ定められ、しかもそれが長年に亘って保持し続けられるのは、調べた訳ではないが、多分他に例がないのではないだろうか。

ここで誤解のないように言いたいが、私はなにも、だから現憲法が根本的に瑕疵があるなどと言っているのではないし、他国の手に成る憲法に甘んじていることが屈辱的で恥ずかしいなどとも全く思わない。
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それどころか、たとえそれが占領国の手に成るものであったとしても、敢えてこの憲法を保持し続けていることに、しっかりとした矜持と、したたかなリアリズムをもっと積極的に持つべきだとさえ思っている。

なぜなら、この憲法はアメリカの占領政策の企図を遥かに超えて、はからずも歴史上あらゆる文明国が古今東西いまだ成し得ていない、抑制的で高邁な国の有り様を若々しく高らかに謳っているからだ。
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成る程その一義的な目的は、この国の戦力を将来に亘って封じ込めることであったろう。

だが、この憲法はそれに止まらず、この極東の地でアメリカの若者がきっと味気のないコーヒーを何杯も何杯も飲んでは不眠不休で夢見たであろう理想への情熱が、前文はじめそこかしこから表出している感じがするのだ。                   
              
しかも、それは独り “ アメリカの ” 若者にとどまらず、 敗戦国の日本をも含めた “ 世界中の ” 、苛烈な戦争の時代を生き存えることのできた若者の、未来へ託した願いのように私には思われるのだ。

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それが、厳しい現実の世界の中で、若さゆえの、憲法に素人ゆえの、あるいは拙速ゆえの、空理空論の夢物語であったのなら、無惨にも早々に破綻して、とうの昔に嫌も応もなく改正せざるを得なくなっていたはずだ。

けれども実際には、時代は変われど、善かれ悪しかれ現実に添うべくあれやこれや工夫をして、憲法は今日まで維持されてきている。

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それには、もう懲り懲りだという国民の戦争への嫌悪感や、勿論そもそも改正しづらくしてあるということもあっただろうが、それ以上に、その根底に今なお切なる情熱が生き続けているからだと私は思う。

しかも、皮肉なことに、そもそもアメリカが起草したものであるという生い立ちが、後々現実の政治の中で、当のアメリカの都合の良い要請を逸らすため、それは少なからず機能してきたし、今日もなおそういう側面はあるはずだ。

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この国は、歴史を振り返るなら、同じ島国であるイギリスなどとは違って、概ね穏やかで自制的な小国であったし、他国の人や物を排斥するのではなく、その精神さえもむしろおおらかにありがたく享受してきたはずだ。

それなのに、暴力的な西洋列強に呑み込まれる恐怖が、いつしか誇大妄想的な情念へと転じ、それが歯止めなく膨張したあげく、ついには先の大戦で他国民に、そして自国民に、計り知れないほどの不幸をもたらした。
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およそ恐怖心というものが、どれほど残酷で虚しい結果をもたらすか、それを学ぶために十分過ぎるほどの命が、人生が失われたはずだ。

だが、戦後70年経って、その負の歴史がしっかりと刻まれたこの憲法を手放すに足るほど、私自身を含めてこの国の国民はもう十分に成熟したと果たして言えるのだろうか。

残念ながら、私はそうは思わない。

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この先、またぞろ恐怖心に駆られて現実に擦り寄るような、そんな安直な思考を排して、この憲法をなお保持して行くためには、おそらく今後も様々な困難が生じることだろう。

しかし、それは決してこの憲法に起因するのではなくて、哀しいことに、愚かしいことに、いくら悲惨な歴史を繰り返そうとも、現実の世界がその歴史から学び取ろうとしていないからだということを忘れてはならない。

だからこそ、困難の中で、私達がこの憲法をブレることなく進路を指し示す羅針盤として見据えつつ、自らの航海の術に磨きを掛け、懸命に現実を乗り越えていくことには大きな価値があるはずだ。

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そのために私達に必要なのは、スッキリ気持ち良くなりたいという幼児的な欲求をひたすらじっと堪えて、しんどいけれど大人の智恵をあらん限り絞って、現実の世界との齟齬に対峙する覚悟であろう。

その覚悟が、その知的葛藤こそが、きっと私達を鍛え、成熟へと導いてくれるのではないだろうか。

いつの日か、勇ましいマッチョな情念からではなくて、 “ 自然に生じるこの国への誇り ” を過半の国民が持てるようになったなら、その時こそ、ぜひ新しい憲法を速やかに私達自らの手で作り上げたいと私は希っている。
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だが、繰り返すが、それは今日明日のことではない。

ちょっと悔しいけれど、それは私がもうこの世にはいない、そんな先のことかもしれないと思うのだ。





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by sido-nikki | 2017-05-03 12:43 | その他のこと | Comments(0)
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