つい先日のことだが、テレビを点けるなり、なにやら険悪な雰囲気で二人の男が言い合っていて、なんだなんだ!?とちょっと驚いた。
そういう時は、精神衛生上よろしくないので、すぐにチャンネルを変えるようにしている。
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昔は、テレビでいい大人がケンカ腰で言い合っているなんてことは、あったのかも知れないが、そう当り前のことではなかったように思われる。
そんな様子がよく見られるようになったのはいつ頃からだろうかと考えると、おそらくこの国でディベートという言葉が流行り出してからのことのような気がする。
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ディベートとは、あるテーマについて考えを異にする者が分かれて議論を戦わすことだろう。
そもそもそれは欧米における教育的な目的のもののようで、この国でも授業や企業の研修で採用されているのをテレビで見たことがある。(結構テレビ好きなのだ)
いかにも古代から弁論の術を重んじた西洋的な匂いがぷんぷんしてくるが、これに東洋の隅っこの国の民である私はいまだに馴染まないでいる。
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議論を戦わすとか、論争とか、その言葉に戦や争とある通り、乱暴に言うなら、それは言葉によるケンカかも知れない。
だが、私達にはたとえそれがケンカであっても、「負けて勝つ」とか「負けるが勝ち」という言葉がある。(きっと私達だけの心情ではない普遍性があるようにも思われるが)
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それらは、なかなか深い言葉だが、因みに「負けるが勝ち」とは 『故事ことわざ辞典』 には次のよう説明されている。
「 一見負けたように見えたとしても、あえて争うことを放棄していったん相手に勝ちを譲ることのほうが、結局は勝ちに結びつく例が多いことから生まれたことわざ。」
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でも、そんなに悠長に構えてばかりはいられないよ、その場で負けられない勝負もあるしねぇ・・・ということもあるだろう。
では、その場合の勝ち負けとは、口で相手を言い負かすことなのだろうか、そうでなければ、いったいどういうことなのだろう。
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その答えは、いたって簡単なことのように思われる。
その勝ち負けの判定を下すのは、当事者ではなくて、第三者であるということだ。
私はかつてサラリーマン時代のまだ恐れ知らずの若い頃、社内で上司とケンカして、そのことを身を以てよく知っている。(稀に勝ったが、たいがいは生意気だと思われて負けた)
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その第三者は、決して論争する双方の発する言語だけで勝敗を判定する訳ではないことは、言うまでもないだろう。
私達は、先ずは論者の顔立ち、その表情、佇まいなど様々な言語外の様相から情報を感知しつつ、論者の言語を吟味しているはずだ。
しかも、発せられた言語の論理だけではなくて、無意識に、絶えず息継ぎや間合いや口調、そして声色や音程も観察しているものだ。
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「リテラシー」という言葉をよく目に耳にするが、それは日本語では「識字」、辞書には「文字が読めること」、それと並んで「読み書きして理解すること」と説明されている。
それが今日では、文字に限ったことではなくて、もっと広汎に、様々な事象を解読すること、あるいはその能力として使われているようだ。
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それを人に対しても適用するならば、論争の勝敗を判定する場合、その総合的な判断とは、まさしく 「リテラシー」ということだろう。
普段、私達は無意識のうちに、人に対する「リテラシー」を絶えず働かせている。
口は達者だけど、どことなく小狡そうだったり、酷薄そうだったり、チャラかったり、ナルちゃんぽかったり・・・なんだかなぁ、なんてことは日常よくあることだ。
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だが、この頃は(以前から?)、いろいろな分野で言論を生業にしている人達、とりわけ政治家が、国民の「リテラシー」を随分と低く見積もっているように思われる。
昨日は、テレビを点けたら国会中継をやっていて、ちょっとだけ見たが、すぐにチャンネルを変えた。
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